犬塚製作所は日本の特装車のパイオニアとして知られている。
黎明期から開花期を迎えた同社は、天秤式ダンプ、楕円溶接構造タンクローリ、バキュームカー、クレーン搭載車、散水車、航空燃料給油車、架線修理車などなど、まさに百花繚乱の日本初の特装車を次々と開発した。
1919年の創業から四半世紀を経た頃には、軍需会社として従業員3000人を抱える一大工場に……。軍用車の中でも特装色の強い車両を得意としていた。しかし、太平洋戦争の終戦とともに犬塚製作所は新たな岐路に立つことになる……。
全3回の「幻の特装車アルバム」第2回は、戦時下から終戦へ激動の時代を駆け抜けた犬塚製作所の足跡を辿る。
文/トラックマガジン「フルロード」編集部 写真・協力/株式会社犬塚製作所
*2013年5月発売トラックマガジン「フルロード」第9号より
戦時下の犬塚製作所と再出発
様々な「日本初」の特装車を開発してきた犬塚製作所は、1933年には東品川に移転、1937年には株式会社に法人組織化、1938年には、社名を現在の株式会社犬塚製作所に変更している。
しかし、やがて時代は戦時下へ……。
犬塚製作所も軍需会社に指定され、本社を品川に置くも、東京原町田に地下工場も備えた敷地10万坪の一大工場を有することになった。従業員は約3000人が働いていたという。
特徴的なのは、軍用車両の中でも特装色の強い車両を製造していたことだ。
ダンプや給油車などのほかに、無線送受信車、靴(軍靴)修理車、装蹄鉄自動車(軍馬の蹄鉄用)、電気炊事自動車、修理自動車(今でいうサービスカーのことだろう)、観測器具運搬車、電気溶接自動車、聴音機トレーラなど、極めて珍しい軍用特装車がつくられていたようだ。
しかし、第2次世界大戦が終戦を迎えると、原町田工場は接収され、犬塚製作所はあらためて民生用の特装車メーカーとして再出発することになった。興味深いことに、戦後いち早く行なわれたのは、トラックではなく、日産の乗用車「ダットサン・デラックス」のボディの試作だった。
戦後、日本はGHQから乗用車の生産を禁止されていたが、1947年に300台限定でダットサン・スタンダード(DA型)の販売が許されたのを皮切りに、1948年には、その後継としてダットサン・デラックス(DB型)の生産が始まろうとしていた。
当時、ダットサンのボディは、犬塚製作所をはじめ数社が外注として製造・架装を請け負っていたが、犬塚製作所もDB型のボディの試作を依頼され、1948年1月、その製品の完成度を讃えて、当時の日産重工業から犬塚製作所に感謝状が贈られている。
ただ、ダットサン・デラックスについては、生産設備が整っている中日本重工業(現・三菱重工)に発注され、同年8月から生産が開始されている。