ダカールラリー2025後半戦、日野チームスガワラのHINO600にはトランスファーのトラブルが相次いだ。とりわけ「SS11」で起きたトラブルは日野の連続完走記録も途絶える可能性もあった。
この最大のピンチを日野チームスガワラはどう乗り越えたのか!? 1月27日に日野自動車本社で行なわれた参戦報告会で語られたチームメンバーの話から、そのリアルな激闘の軌跡を振り返ってみよう。
文/トラックマガジン「フルロード」編集部
写真/フルロード編集部・日野自動車
チーム一丸!! メンバーが語るリアルな「ダカールラリー2025」激闘の現場
これまで7年(乗員としては6年)、日野チームスガワラに参加している乗員メカニックの望月裕司は参戦報告会で、次のように振り返っている。
「過去の経験からも、SS11は一番ピンチだったという感想をもっております。やっぱり前にも後ろにも進めないというのはかなり怖い状況でした。(中略)乗員でどうにかしなければいけないという状況で、でも照さん(ドライバー菅原照仁)はずっと諦めずにこうしよう、ああしようと。それに対しこれは厳しいんじゃないか、これならできそうじゃないか、みたいなことを乗員全員で話し合って、結果的に2駆にしてなんとか脱出できました。」
いっぽう、車両の修理には望月裕司と菅原照仁が当たり、ナビゲーターの染宮弘和は車両を戻すための情報収集に奔走。また携帯電話が使えないため、アシスタンスチームなどとの連絡をとるべく、3キロほど先にある電波が届く舗装路まで日が暮れた砂漠の中を徒歩で向かったという。
「メカのほうは照さんとモッチー(望月裕司)が直してくれると確信していたので、私はクルマを戻すためのいろんな手筈を準備しておりました。主催者だったりチームだったりと連絡を取ったり、あとは地元の人たちに出会ったその場その場で情報を聞いて、経路を見つけようとかやっていました。(中略)脱出したあとチームのみんながサポートにきてくれたのでクルマを早めにビバークに戻すことができ、結果として翌朝のスタート時間に間に合う修理ができた。本当に3人で力を合わせたから、諦めずに最後まで走ることができたと思っております。(染宮弘和)」
3度目となるトランスファーの修理は部品をほぼ使い切っている状態。実は現場で車両から降ろしたトランスファーはその場にデポする予定だったが、チームマネージャーの門馬孝之の機転でサポートに向かう際に回収。この部品を活用することでなんとかトランスファーの修理を行なうことができたのだという。
「トランスファーを投げてきたと聞いてたんで、プロペラシャフトを切ってミッションからデフまで手作りのプロペラシャフトにして無理やり走るしかないんじゃないかという意見があった中、帰ってきたランクル(現地でレンタルしたサポート車両の1台)のラゲッジを開けた瞬間にオイルまみれのトランスファーがレンタカーの中に転がり込んでいるのでびっくりしました。それがあったおかげで、オーバーホールすることができました。(青森日野自動車メカニック:柏谷壮一郎)」
しかし、トランスファーの修復は最後の最後でベアリングの部品が足りないという状況になる。そうした中で運が味方したのか、なぜか欲しかった部品が見つかるということも起きた。
「最後本当にベアリングがなかったら組めないというところまできたんですけれども、偶然移動した際に欲しい名前のベアリングがあって、そこから僕と上原さん(長野日野自動車メカニックの上原智史)が中心になってトランスファーを組み上げていきました。(中略)出走時間の30分前に組み上がって走ってもらったんですけれども、ビバークがちょうどゴールの近くで帰ってきたレンジャー(HINO600)が見えたときは本当に感動しました。僕たちのやってきた2週間は報われたなと思ったし、一生忘れられない経験になったなと思います。(メカニックリーダー:吉川幸司)」
日野チームスガワラにとって、波乱に満ちたダカールラリー2025はチームの総合力が試される大会だったといえる。順位こそ昨年より振るわなかったが、今回の経験は次戦以降の大きな糧となるはずだ。ドライバー兼チーム代表の菅原照仁は、結びに以下のように語った。
「順位は去年よりも低いんですが、諦めないという気持ちで走り抜いて戦ってきた経験は、とくに若いメンバーにとって順位以上のかけがえのない経験になったと思っています。本当にチームは強くなったなというふうに実感できる大会だったと思います。」
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