際どいタイミングで飛ばせたヘリが貴重な情報源に……
これは宮城沖地震を想定しての行動計画に則った措置でもありますが、被災した格納庫からなんとかヘリを表に出し、みちのく号は地震発生から37分後には飛び立っています。
ご存じのように、その直後に仙台空港は津波で冠水しましたから、本当にきわどいところでした。ヘリからの映像はライブでこの災対室の大型ディスプレイに映し出すことができるのですが、あとからわかったことには、青葉山にある中継局が被災したため、映像はほとんど見ることができませんでした。
ただ、クルーが逐次伝える被災状況を聞いただけでも、これはとんでもないことが起きていると実感しました。また、ヘリと同時に、青森、岩手、宮城、福島の各県庁に課長クラスのリエゾン(情報連絡員)を派遣しました。
3月11日の夜には、私どもの徳山(日出男)局長(当時)が3つの方針を打ち出します。
太平洋沿岸に大被害が予想されるので、最悪の状況を想定して準備しなければならない。それにはまず第一に情報収集をしっかりやるということ、二番目が救援・輸送ルートを迅速に啓開するということ、そして三番目が自治体や被災者支援をするということです。
自治体や被災者支援というのは、東北地方整備局の本来の仕事からすればかなり異例のことですが、これは国土交通省の大畠章宏大臣(当時)から、『第一に人命救助。続いて輸送路の確保。予算は考えないでいいし、国交省の所管にとらわれなくてもいい、局長判断で考えられることは全部やってほしい』という明確な方針を受けてのことです。
震災により各地で自治体機能が失われている状況がありましたから、それを我々ができる限り補完しようということです。
大畠大臣から『国交省の大臣になったつもりで頑張ってほしい、現場にすべて任す』と言っていただいたことで、我々は非常に動きやすくなりました」。
「すべて現場に任す」の言葉を受け、救援ルートの啓開に挑む
大震災当日の夜、防災対策室では一刻も早い道路啓開に向けて、すでに「くしの歯作戦」の概要が固められていた。
「『くしの歯作戦』と名づけられたのは数日後の話ですが、すでに当日の作戦会議では徳山局長の口から「くしの歯状」という言葉が語られていました」。
その「くしの歯作戦」とは、津波で大きな被害が想定される沿岸部への進出のため、東北道・国道4号という縦軸から、沿岸部を走る国道6号・国道45号へアクセスするための横軸となる「くしの歯」状の救援16ルートを速やかに通行可能にしようというものだった。
くしの歯作戦の第1ステップは、東北道・国道4号の縦軸ラインの確保。そして、第2ステップが三陸地区へのアクセスとなる横軸のライン(東西ルート)の確保だった。
震災翌日の3月12日には、早くも11の東西ルートの確保を確認し、14日には14ルートを確保。15日には、原発避難区域のため作業できない1ルートを除く15ルートすべてを確保し、翌16日には一般車両の通行も可能にしている。
さらに第3ステップとして沿岸部を走る国道の啓開に着手し、国道6号(原発関連を除く)、国道45号は3月18日までに97%が通行可能になるなど、道路啓開は概ね終了。
同日より応急復旧(一定の工事を行ない一般車両も含め通行できるようにすること)の段階に移行している。