特装車の専業メーカーとして1955年6月に設立された極東開発工業は、2025年に創業70周年を迎えた。
前編では戦後の復興から高度経済成長期へ向かう日本の躍動期に誕生した極東開発の成り立ちを紹介したが、後編では特装車のトップメーカーに成長するまでの足跡を1996年6月に刊行された「極東開発工業40年史」から紐解いていこう。
文/トラックマガジン「フルロード」編集部、写真・協力/極東開発工業
出典:極東開発工業40年史
*2025年9月発行「フルロード」第59号より
高度経済成長で増産体制の構築が急務に
主に大型トラックの架装を行なっていた名古屋工場の開設時(1959年)、大型トラックといえば6トン車。高度経済成長が本格化するなかトラックの大型化で8トンや10トンが主流になり、トレーラ需要も発生する。
さらに海外向け特装車の需要が重なって、増産のため工場の拡張計画の具体化が求められていた。約20万㎡という広大な土地の斡旋を愛知県小牧市に要請したのは、トヨタ自動車との関係を深めるため敷地内にテストコースを設けることも可能な広さを希望したためだ。
その希望には及ばなかったが、約13万㎡の土地を確保し1968年から新名古屋工場が稼働を開始する。当初は「この敷地いっぱいに果たして車両で埋まるだろうか……」と懸念を覚えるほどの広さだったという。
いっぽう、戦後の日本経済を支えてきた石炭の採掘が次第に下火となり、1962年に産炭地経済の救済のため「産炭地域振興事業団」(後の「地域振興整備公団」。2004年に解体)が設立され、工場誘致が活発に行なわれるようになった。
同事業団から極東開発に対して呼びかけがあり、福岡県知事などからも進出へ強い要請があった。ただ、九州は特装車の激戦区で、先発の大手メーカーが既に進出しており、地元の特装メーカーも活発に活動していた。
競合分野で成果を上げることは困難だが、産炭地は同時にセメントの産地でもあり、「コンクリートポンプ」や「ジェットパック」など売り出し始めた独自製品について、充分に期待できる地域でもあった。
そこで、まずはサービス活動の拠点という位置づけで九州・飯塚市への進出に踏み切り、小規模な工場からスタートした。人情に厚い地方色が残っており、新規進出にあたっては地元同業者との摩擦を避けることに配慮した。
1970年に発足した福岡サービスセンターは、所長ほか7人と小規模だが平均年齢は25歳と若く、極東開発が再建に協力していた金剛製作所からの応援および同社協力工場の末広自動車の従業員を含めると総勢40人ほどとなった。
大型ダンプの製造は間もなく月に20〜25台規模となり、ジェットパックやコンクリートポンプの架装、パワーゲートのキット売りなど順調な滑り出しを見せた。
ところで当時の本社部門は、1961年に本社工場の食堂2階に移転したままとなっていたが、1967年、本社工場敷地内に新社屋を建設。直径5mの社章を付けた13mの広告塔はどこからも目につき、まだ知名度の低かった極東開発の存在をアピールした。
これに続いて工場事務所を兼ねた技術センターも本社工場内に完成している。ただ、この地域は住宅に囲まれたいわゆる「工場追い出し地域」に当たっていたため、拡張は事実上不可能に……。
生産拡大に対応できる適地を周辺に求めることが焦眉の急となった。本社工場から北東へ約14kmの川西市下加茂地区に完成した伊丹工場(当時は本社第二工場と呼称)が1971年から操業を開始し、タンクローリの架装業務などを本社工場から移管した。

















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