活況を呈する特装車業界! 大型車中心の名古屋工場開設
世の中はなべ底不況を経て、1959年に入ると再び活況を呈し、岩戸景気にわいた。この頃、極東開発では本社工場に次ぐ生産・営業の第2の拠点の確保を模索。検討の結果、トヨタ自動車が所在し、まだ大手特装車メーカーが進出していない中部地区が最適であるという結論に達した。
折しも小牧市と春日井市の双方にまたがる総面積2万4386㎡の土地が候補地になり、1959年秋に名古屋工場が竣工した。しかし、施工会社から引き渡しを受けた2日後の9月26日、ほぼ全国にわたって甚大な被害をもたらした台風が襲来した。伊勢湾台風である。
名古屋工場は、工場屋根のスレートや塀を破損した程度であったが、復旧のため開設は10月に入ってからとなり、送電が開始されるのを待って40人が転勤、操業が開始された。
ちなみに伊勢湾台風の災害復旧のためのダンプの需要が急増し、開設早々、残業に次ぐ残業となった。名古屋工場は立地上、トヨタ自動車との関係が重要な部分を占めた。トヨタから最初に入ったまとまった商談は、航空自衛隊向けのダンプ28台だった。
このダンプは、シャシーが6輪駆動の2DW‐15の上にさらに細かい仕様が多かった。まだ設計部門の陣容が整わない中での受注だったが、1960年3月に無事納入した。
当時の大型トラックは6トン車が中心だった。極東開発が製造する特装車は、すべて1台ずつ車検場に持ち込んで新車登録検査を受けていたが、管轄官庁である陸運局側からは、「ダンプのような同じ寸法、形状のクルマは極力指定自動車化するように」という指導要請がなされた。
トヨタからも「ぜひ指定自動車にしよう」と提案され、これを受けて極東開発はダンプ機構の標準であるKR42型ホイストを使用できる専用シャシーの共同設計を進め、1960年9月から我が国初の大型指定自動車ダンプトラックとして生産に入った。
その後、いすゞ自動車、日野自動車も後を追って指定自動車化を進めることになったが、ダンプトラックで先鞭をつけたのはトヨタのFA、DA6トンダンプトラックだった。
開始当初の生産はダンプカーが月100台程度だったが、1963年以降、ダンプ以外の特装車の生産も始めるようになり、月産台数も300台を超えるようになった。その後、8トン車、10トン車が主流となり、6トン車は姿を消していった。
小型ダンプをメインで生産する新本社工場を甲子園口に開設
いっぽう、上甲子園の本社工場で開始した小型ダンプの架装も需要が旺盛で、月産150~200台規模に達していた。極めて手狭となり、新工場の建設が急務となっていたが、幸いにも1959年5月、近くに2万9620㎡の建設用地を確保することができた。
そこで、ここにダンプカー専門の組立工場を建設し、本社工場は機械加工専門の機械工場およびサービス工場として機能部品の増産を図っていくことを決定した。確保した建設用地は、川西モーターサービスとゆかりの深い旧鐘淵機械の工場跡地でもあり、まだ煉瓦造りの倉庫や瓦葺きの木造建屋が残っていた。
早速それらを応急修理し、1960年1月から組立作業を開始した。当初は月産100台程度だったが、6月頃には約400台、12月には827台となり、フル稼働の状態が続いた。
翌年には元進駐軍専用建屋を移設し、待望の組立工場が完成。この新工場の稼働により小型ダンプの生産はめざましい伸長を見せ、稼働から半年後の6月には月産1400台を達成した。
さらに小型ダンプの生産を主としていたものの、一部大型の生産も開始し、急増する受注に対応した。新工場は、本社工場に比べて敷地面積で約4.5倍、工場建屋面積で約5倍と広大。設備も新しく近代工場の要件を備えた。
また、生産増加に伴い人員も増え、管理部門や営業部門も移り、極東開発の中核をなす陣容となってきた。このため1962年4月1日をもって、本社所在地をここ西宮市甲子園口に移すことになった。
1959年の名古屋工場に続き新本社工場が完成し、一応の事業体制は整ったが、さらなる躍進を目指すには東日本への進出が不可欠であった。折しも、当時の池田勇人内閣が推進した高度経済成長政策の「社会資本」の充実という観点からすれば、特装車の需要は全国的に大幅に伸長することが見込まれた。
実際に1964年には東京オリンピックの開催が予定されており、名神高速道路や東海道新幹線などの大型公共事業も目白押しだった。極東開発は関東地区の拠点づくりのため、新たな工場を建設する準備を進めた。



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