追想記(消えた道 其の十)
普通、キャンプで行動を共にしていた九州の仲間たちの話題になってもよさそうなものだ。だが、「荒海や……」芭蕉の句を口ずさまれて以降、完全にペースを握られている。
ペースを握ったその人の口からは、他の仲間たちの消息を訊くなど、一切話題には上らず、当時のお互いの気持ちばかりに終始している。もちろん、自分の転機になった私の存在を意識してモノだろうが、ただ感謝したいだけなら、そのことだけを伝えれば済むことではないか……。なのに、当時のお互いの気持ちを掘り起し、再燃させるようなマネをしている……。また、あらぬ妄想が首をもたげてきた。
キャンプの頃は、前のご主人とうまくいってなかった。だから、一線を越えてしまうと、深みにはまることを警戒していた。が、今は違う。幸せだと言っているので、今の生活を手放したくないはずだ。当然、単純に不倫で終わるだろうし、そして、この人もそれを望んでいるかもしれない。
「あの時、他の女性とは違う気遣いをしたのはその通りです。初めて目を合わせた瞬間からあなたのとりこになっていたんです。でも、あなたは人妻だった。けど、ご主人から心が離れていたんですよね。そのことが、一線を越えた後の男としての責任と言う意味で、無意識のうちに意識していて、あなたを誘うのをためらわせたのかもしれません」
「でも」と、口を挟んできた。
「あなたは、最後の夜には誘ってくれたわ」
微笑みを浮かべて、目が同意を求めるように訴えている。
「そうですね。全ての現実よりも、情熱が勝ってしまったのでしょうね」
「私もそう。あなたから誘われて有頂天になってしまって、何もかも忘れてしまってたのよ。家のことも主人のことも頭の中からすっかり消し飛んでしまって、あなたに誘われ、身をゆだねることの嬉しさばかりだった。あら、ごめんなさい。恥ずかしいわ」
そう言って、ハンカチを取り出し、額を拭いた。その仕草はわざとらしく映ったが、好ましかった。そして、その好ましい仕種が、あの時叶わなかった想いを遂げるチャンスだと思った。
「今日、再会できたのは、あの時のシチュエーションとは違いますよね。お互いを取り巻く環境、そして、あの時燃え上がった情熱が消し止められないまま、今に残っている。オレ、今それが確認できた気がしています」
ハッとして、目を見開きオレを凝視した。その様子から、何か見当違いのことを言ったのかと、不安になってきて、慌てて言葉を繋いだ。
「以前のあなたよりも、今の方がずっと魅力的ですよ。それに、今なら当時の情熱を消すことができても、再燃することはないですよね。あなたも幸せに暮らしていることだし……」
真顔になったその人の口から、穏やかな返事が来た。
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