追想記(消えた道 其の十三)
「じゃあ、何なの。あの『荒海や』の句だけしか、松尾芭蕉は詠んでないの?」
驚いた顔をしながら質問してきた。
「そうです。山形県の酒田と象潟を会わせると結構滞在しているんですけど、新潟県内はさっさと通り過ぎているようなんです。でも、詳しい理由はわかっていませんけどね。だから、何となく思い入れというか、惹かれるものがあったんです」
「じゃあ、あなたは俳句が好きなのね」
「いえ、歴史が好きだと言った方が正しいです。歴史にはロマンを感じますのでね」
「でも、それだけで出雲崎に行きたいって……」
何となく、理解できない顔をしている。理由づけとしては弱かったようだ。その時、嘘なのだがある考えた閃いた。
「越後に入って、つまり現在の新潟県に入ってから句を詠まなかった芭蕉が、何故か出雲崎だけで読んでいる。その時の天の川が見える佐渡の風景が気になって仕方がなかったんです。もちろん、あなたに出雲崎のことを話したので、何となく……。そんな気持ちもありました」
最後は作り話だったが、その人の気持ちを救ってあげたい気持ちが働いた。
その人は、笑顔になってうなづいた。
「ありがとう。やっぱり、今日会えて良かった」
それからは、またお互いの近況報告を詳しくしあって、それが一段落ついて喫茶店を出た。スーパーの駐車場を出た後は、予定通りと言わんばかりに、その人はトラステに向かって車を走らせた。
私もその時には、萬代橋の袂のラブホテルのことは、すっかり頭から離れていた。
トラステに着くと、私のトラックの前に停めた。車を降りようとして、いただいたお土産を持った時、その人は穏やかな口調で言った。
「私もね、さっき喫茶店で話している時、あなたの希望を叶えようかと、一瞬、そんな気になって…… 恥ずかしかったわ。ふふふ、ごめんね。もし、そんな関係になると、全てが嘘っぱちになってしまう。そんな気がしたの」
「そうですね」
それだけしか言えなかった。そして、手にしたハサミとタオルが目に入った。
「これ、大切に使わせてもらいます」
「ごめんね。男性不信から立ち直らせてくれたあなたに、こんなものじゃすまないのはわかってるのよ」
右横から聞こえてきたその言葉には、本当にすまないと言う気持ちがこもっていた。
「いえ、偶然の再会なのに、気持ちが行き届いた品だと思っています。じゃあ、これで失礼します」
気持ちを見透かされていた恥ずかしさに、早く一人になれと追い立てられていた。車を降り、助手席側から最後の挨拶をした。
「今日は会えて良かったです。お幸せに」
その人もすぐに応じてくれると思ったが、戸惑いが一瞬あった後、言った。
「○○君、本当に今日はありがとう。幸せにね」
最後の最後になって、名前を呼ばれた。あのキャンプの間中その人から君付けで呼ばれていた。そして、その時のシチュエーションが蘇えってきたのと同時に、反射的にその人の名前を思い出した。そして、その途端、ほとばしるようにその名前が口をついて出た。
「玲子(仮名)さんもお元気で、そして、お幸せに」
名前で挨拶された瞬間、彼女はカッと目を見開き、そして、すぐにうるんだ目になった。
「ありがとうね。本当にありがとう」
そう言って、彼女は前を向き、ハンカチを取り出した。私は、そっと、なるべく音がしないようにドアを閉じた。その様子に、いたたまれない気持ちがしたからだ。
トラックのキャビンのドアに手をかけて、ドアを開けても彼女は車を発進させなかった。私が運転席に乗り込んだ後、しばらくして車が動き出した。
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