タイユーのUS OTR百景 No.4

タイユーのUS OTR百景 No.4

「10年経っても…」 (2011/9/12)

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星条旗

2001年9月11日の朝は、グランドキャニオンで観光ツアーのお客様を案内していました。サンライズを楽しんでいただき、一旦ロッジに戻った後、出発の支度をしながらテレビのスイッチを入れると、普段のモーニング番組とは雰囲気が全く違うシーンが写っています。何だろうと思いながらその映像を見ていると、ニューヨークの摩天楼をハドソン川越しに映しているようですが、しかし、一帯を包むモクモクと上がる煙は何のだろうと、大きな疑問を思わせる不思議な光景でした。
バックグラウンドミュージックもなく、無音の映像が流れているだけですが、時折入るアナウンサーのコメントで知りえるのは、飛行機がツインタワーに激突して煙を上げていることだけです。最初は、軽飛行機がツインタワーに激突したのではないかと思っていたのですが、ジェット旅客機が、それも2機が激突したと知るのはかなりの時間が経過した後でした。そして時間が経てば経つほど、ことの重大さと世界中に与えた衝撃の大きさが増していきます。アメリカ中の旅客機の運行が直ちに中止され、再開されるまでに数日、平常運行に戻るまでにはさらに1週間ほどを要した出来事でした。

その日の朝、ブッシュ大統領はフロリダの小学校を訪れていたのですが、直ちに大統領専用機のエアフォースワンに戻り緊急離陸をして大空に舞い上がりました。行き先は未定ですが、こうした非常時のためにアメリカ航空技術の集結して特別仕様にされたB-747は、熟練の空軍パイロットの操縦で大空の安全地帯である高度6万フィート(1万8300m)に向かってフルパワーで急上昇をします。そしてその横を護衛するのは、これも特別仕様のF-16。Air Force One の大統領室の小窓から、ブッシュ大統領は太陽に輝くキャノピー越しに見えるパイロットに敬礼を送ります。

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アメリカ大統領専用機 Air Force One

翌月の2001年10月7日、アメリカ空軍はアフガニスタンの首都カブール一帯を治めるタリバン軍に向かって軍事攻撃を開始します。9・11同時テロ攻撃を実行したアルカイダテロ組織を崩壊し、その首謀者オサマ・ビン・ラディンを逮捕し、共謀していたタリバン軍を制圧することがアフガン戦争開始の理由です。圧倒的な兵力を誇るアメリカ軍は、わずか数ヶ月でタリバン軍を抑え、アフガニスタンをほぼ攻略します。このアフガン侵略は、アメリカ本土において3000人以上もの犠牲者を出したテロ行為に対しての報復であり、それは国連の支持も受けたアメリカの正当な行為として世界も容認していました。

翌年タリバン軍の抵抗が収縮し、首都カブールでアメリカ支持のカルザイ政権が動き始めると、ブッシュ政権はイラクの大量崩壊兵器所有疑惑を世界に訴え始めます。それは、フセイン大統領がアルカイダテロ組織の影の支持者であり、国連の承認無しに核兵器を開発し、アルカイダを通じてその使用を計画しているとの理由でした。そして2003年3月19日、アメリカ軍は首都バグダッドのフセイン大統領邸に向かって一斉にミサイル攻撃を開始し、米兵25万5000人、英兵4万5000人、他の国連軍とで計30万人をゆうに越える兵隊でイラク侵略が開始されます。

2003年5月2日、フセイン大統領を拘束することは叶わなかったものの、首都バクダットを攻略し、フセインが直接指揮し世界でも最も残虐な軍隊として知られる共和国防衛隊(Iraqi Republican Guard)を無力化したことにより、ブッシュ大統領はガルフ湾沖に停泊する、空母「USSアブラハム・リンカーン」上の「Mission Accomplished 使命達成」と書かれた垂れ幕の前で、勝利宣言を行ないます。それも、もと州軍のジェット戦闘機パイロットであったことから、F-16で飛来して、勝軍大統領としての自分を劇的なシーンで演出します。
ブッシュ大統領は、フセインによるイスラム教のシャリア法を基にした独裁統治で苦しめられたイラクの人々に、世界が認める人間として権利の下に自由と民主主義の日がやってきたと演説します。
しかしその後の歴史が物語るように、ブッシュ大統領の勝利演説は、イラクの人々がブッシュ大統領のいう自由と民主主義を叫ぶたびに多くの人たちが血を流し命を失うという、残酷で悲惨な毎日の始まりの演説だったのです。アメリカ国民も、その後の毎日のニュースで流れてくる勇敢な米兵が、ローテクで作られた道路脇爆弾で負傷し戦士していくことに心がふさがれ、多くの人たちが涙を流します。命を失う兵士が増えれば増えるほど、戦争費用もうなぎのぼりに増加し、アメリカの財政赤字が巨大化ていきました。

アメリカ国民は、残虐な見えない敵が潜むイラクに自由の灯りを灯すために立ち向かう、若き勇敢な兵士に大きな支援を送りました。勇敢な戦いぶりが連日メディアで報道され、砂漠の中で軍務にできるだけ不自由がないようにと、軍からは配給されない日用品が民間の手によって配送され、負傷して帰国する兵士には、あらゆる医療法が適用され、そして命を失って帰国する兵士には我が子を失ったがごとく家族とともに涙を流し、そして最大の敬意を表します。こうした国民性は250年も前に、アメリカが独立のために勇気をもって立ち上がった人々から受け継がれたものです。

そのようなイラクの人々の上に、そしてアメリカ国民の心のなかに黒雲が立ち込め、今日には明日には戦争が終結することを心から願いながらの毎日の生活が続く中、22004年11月2日に行なわれる大統領選挙の日が近づいてきます。ブッシュ大統領は共和党代表としての再選を狙い、民主党は、ベトナム戦争で兵士の経験を持つジョン・ケリー上院議員を対抗馬として選出します。
ケリー上院議員の主張は、ブッシュ大統領下では、イラク戦争はベトナム戦争のように退くに退けないで泥沼化する、イラク戦争の早期終結は、ベトナム戦争経験がある自分には可能であるというもの。一方、ブッシュ大統領の主張は、イラクを主戦場としたテロ戦争が悪化している今、今までの作戦を休むことなく続けなければ(stay on the course)、また一瞬でも手を抜けば、テロリストがイラク国民を残虐に殺傷し、その力は世界中にあらたな恐怖を及ぼすというものです。

アメリカ大統領は、民間人として大統領であると同時に軍最高司令官(Commander-in-Chief)でもあります。ですからアメリカ大統領は、平常時には外交、国内政策、経済政策などに力量のあるなしを問われますが、戦時には軍の指揮力が問われます。軍の指揮力で有名なアメリカ大統領としては、初代のワシントンを筆頭に、リンカーン、グラント、トルーマン、アイゼンハワー等があげられます。2004年は、イラク戦争が泥沼化していた時でしたから、国民の多くは民間人としての大統領ではなく、前線で苦戦を強いられている兵士にとって、軍最高指令官を誰にするのが一番良いかを思案していたのです。

ケリー上院議員の若い頃の汚点は、ベトナム戦争中に負傷したことで授与されたパープルハート勲章(戦闘中または敵の攻撃の直接の結果として受けた名誉の負傷に対して与えられるハート形の勲章)を、帰国後に反戦運動していて公衆の目前で勲章を川に投げ捨てたことです。このことが軍人としてふさわしい行為であったかどうかが、選挙運動中にいつも疑問視されます。一方ブッシュ大統領の汚点は、イラク侵略の大儀名文であったMDW(weapons of mass destruction 大量破壊兵器)を見つけられなかったことによるイラク侵略の正当性が問われたのです。
2004年11月2日、国民は苦渋の決断をします。それは、アフガンやイラクの最前線で若い兵士が日夜命がけの勤めを果たしているのは、最初の理由がどうであれ、その命令は軍最高司令官のブッシュ大統領が下したものであり、前線の兵士はその命令を忠実に実行しているのだから、ブッシュ大統領を否定することは、アフガンやイラクに自由と民主主義を与えるという兵士たちの大義名分自体を否定することになるという判断です。
ですから多くのアメリカ国民は、二つの戦争を肯定したのではなく、「ブッシュ大統領よ 今一度機会を与えるので、戦争を早く終結し、我々アメリカ国民のために命がけで戦っている若い兵士を、一日も早く帰国させるように…」との願いをこ込めてブッシュ大統領を再選したのです。

しかしアメリカ国民は、自分たちの決断が誤ったものであることをわずか3ヶ月後に知らされます。2005年2月2日、大統領再選後初の一般教書演説で再選は自分が行なってきた決断を国民が認めてくれたことの結果であり、今まで通りのやり方を全うし(stay on the course)、与えられた権力(political capital)を行使していくと国民に訴えます。これを聞いた国民は、ブッシュの理解力の無さをまざまざと知らされることになります。

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ホワイトハウス

アメリカは2大政党として知られていますが、登録されている政党は他に5つほどあります。しかし、少数政党の党員の数は有権者全体の数%ほどですから、選挙への影響力はゼロに等しいほどです。選挙に大きく影響を及ぼすのは有権者の15%ほどといわれる Independent と呼ばれる無党派の人たちです。共和党と民主党の支持者は各40%強でほぼ同数で、支持者は毎回の選挙でほぼ全員が党支持候補に票を投じますから、焦点は無党派の票をどう得るかと、労働組合、宗教団体、黒人やヒスパニックの人種系などの大きな組織票をどう獲得するかにかかってきます。
自分は無党派ですから、2000年の大統領選挙ではゴア候補は実力不足と思いましたし、ブッシュ候補は父親が湾岸戦争を始めましたから、その影響があってはいけないと思い、大富豪でイランでの人質救出作戦で有名になったペロー氏に投票しました。2004年には、前記のように前線にいる兵士を考慮してブッシュ大統領に1票を投じましたが、数ヵ月後に大いに後悔し、さらに兵士の戦死をラジオで知るたびに涙を流す日々がさらに3年ほど続きました。

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毎日道路脇爆弾で命を失う兵士のニュースに、たまらずに送ったブッシュ大統領への抗議の手紙

 

アメリカ大統領はアメリカ国民に対しての影響力だけではなく、世界のリーダーとしての影響力も想像を絶するほどの大きさがあります。ですから、予備選を含めると1年以上もかけて候補者を吟味していきます。そうして段階的にふるいにかけて最終候補者を2人まで絞るのですが、最終候補者になると、どちらか一人が必ずアメリカ大統領として4年間その権力をふるうことになります。テニスのファイナルマッチや優勝決定戦と同じで、勝者は一人です。別な見方をすると、いくら優秀な実力をもった人でもファイナルマッチまでいけなければ論外です。そしていま一つ、国民に与えられた選択肢は二人だけで、その二人のうちの一人が自分の好むと好まざるにかかわらず4年間の権力を得ます。ですから、もしもその人が自分の否定する人であっても、勝者には4年間大統領としての敬意を表するのが国民の務めです。また、この人はと思って選んでも、実際に行なう政治が公約や自分の望むこととは全く違っていても、4年間敬意を払わなければいけないのは同じことです。

9・11の後2年ほどしてラスベガスでタクシーの運転手をしていたとき、ある日乗車されたお客様は、当日の朝ツインタワーのオフイスにいたとのこと。今でも耳元で聞こえてくるのが「パーン。パーン。パーン」という音だそうです。事が起きてすぐにエレベーター脇の階段を使って避難しているとき聞こえてきた、高層階から落下してくる床に人が激突する音だそうです。10年経ってもその話を忘れることのできない自分ですから、きっとそのお客様は今日もその音が聞こえてるのでしょう。
ブッシュ大統領の8年間は、9・11で涙を流し、戦争で涙を流した8年間でした。その後、アメリカ国民も世界も「チェンジ」を期待したオバマ大統領ですが、景気後退に失望し高失業率に失望し、外交の無策に失望しているのが実情です。9・11から10年経っても、アメリカも世界も少しもよくなっていないのではないか……、10年の節目の日にそんなことを思っていました。

OTR=Over The Road アメリカを走る長距離トラッカー

アメリカン・トラック野郎 タイユーは走る
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