元ベテラン運転手 トラさんの「泣いてたまるか」No.104
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寄稿・連載
追想記(誰もいない道 その四)
それからと言うもの、考えるのを止めにして走った。幾つかの小さな街並みと、右側だったか左側だったか線路が走っていたのを覚えている。そして、あの誘い込むよな真っ暗な海も、随分前から見えなくなっていた。
そしてあの頃、「秋田外環状線?」だったか、名前はよく覚えていないが、空港方面に行く道があった。道は片側一車線ながら開通していたので一、二度走ったことがある。その道は、開通しているとはいえ、未完成の感じがして、いずれ7号バイパスになるのではないかと予感させる道だった。そこの分岐点を過ぎて、やっと安心感が体を包んだ。
道路地図で確認していた届け先が、目と鼻の先だったからだ。それからはスピードを落とし、注意深く工場らしき建物を探しながら走った。ここを過ぎると、直ぐ秋田市街地になるのは知っていた。
市街地まで行くと行き過ぎ……。このことは頭に入れていたので、すぐに7号沿いのその工場は見つかった。
翌朝9時から荷降ろし作業はすぐに終わった。そして、いつもの習性で……。というか、当時の私が乗っていたいすゞの4トンは、エアブレーキの水抜きが必要だった。新品だったその4トン車には、当時ではいち早く、エアブレーキ装着だったのである。そのエア抜きのシャーシャーという音が、私にとってはステータスだった。
が、これが悪かった。トラックに乗りこみ、出発してブレーキを踏むと、効かない! 慌てた。早速会社といすゞに電話を入れると、いすゞからは「エアの水が凍ったんでしょう」との返事。
「どうすればいいんですか」と尋ねると、
「お昼頃には溶けるから、待つしかないですね」
最後は何ともお粗末な結果になってしまった。
お昼まで待ったのは覚えているが、その後、どこでどう帰り荷物を積んだのか、全く覚えていない。記憶にあるのは、僅か400kmに満たない距離の間の凍りついた道と、その不安だったことばかりだ。その不安は、一台の対向車とも逢わず、一台の同行車とも逢わなかったことに尽きた。
*註
この項目は、全て記憶で書いたものであり、時間、距離、地形について、多少の間違いがあるかもしれません。悪しからずご了承ください。また、時期は昭和60年代の4月なので、その頃、この地方が氷点下に下がったことがあると思います。雪はなく、ただ道路の凍結だけでした。印象深い記憶です。 了
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